人生の終わり

「おつかれ~」という課長の声と共に、ドッと疲れが押し寄せてきた。俺は椅子の背もたれに全体重を預ける勢いで、上体を仰け反らせた。ここのところ働きづめで、自分が疲れているということすら自覚できなかったように思う。毎日毎日遅い時間に帰っては「今度休みになったら洗濯しよう…」と思ってから1ヶ月経過した布団に倒れ込む。皮脂の臭いを鼻いっぱいに吸い込むと、次に目を開けた時にはチュンチュンとスズメの声が聞こえてくる。人間、長い時間働いていると頭がおかしくなって、何連勤でも働けるようになるものだということを、こうやって仕事を始めてから知った。乾いた笑い。

それはそうと、今日は仕事納め。ようやくこの生活から、ちょっとの間解放される日だった。さて、家に帰ってから明日の予定を考えてみると、驚くほど何も無いことに気が付いた。俺の生活は仕事に支配されてしまっていたのだ。仕事以外の予定を想像できない。文字通り、『想像できない』のである。

 

「………」

 

買った時の3分の1ほどの薄さになった掛け布団に頭を預ける。そのまましばらく天井を見ていたら、急に実家の家族の事を思い出した。4人の顔が蛍光灯の光の中にぼやけて見える。そういえば、ここのところ忙しくて、家族の事など完全に忘れてしまっていた。

 

家族に会いに行こう。そう思った。

 

――――――――

 

 新宿から特急かいじに乗ってウトウトしていると、目的地である大月駅に到着したようだった。

久しぶりに来た大月駅は、俺が高校の頃に見た景色とは様変わりしていた。駅舎はそうでもないが、一歩駅を出ると綺麗なロータリーが出現していた。昔はただただ狭苦しい車道が一本あっただけで、駅から出てくる学生やらなんやらを待つ送迎の車が、ごちゃごちゃと立ち往生している風景を、よく苦々しい気持ちで眺めていたのを覚えている。今になって周りを見てみると、立ち並んでいた汚い建物が取り壊され、スッキリとした広場になっている。こうやって何もかも変わっていくんだろうな、とか思ったりした。

 

俺が今回、大月駅で降りたのには理由があった。

 

母親に「帰省する」という連絡を入れたら、「その日に大月の近くまで行く用事があるから、車で家まで乗っけてくよ」と言われた。実家からかなり離れた位置にある大月駅で降りたのも、そのためである。俺は自動販売機で120円の缶コーヒーを買い、ちびちびと飲みながら迎えを待つことにする。息が白い。

駅舎の壁に背中を預けていると、携帯が鳴り出した。俺はその着信相手見て驚いた。弟だった。

俺は弟のことを思い出した。中学校から俺と同じように不登校になり、高校をなんとか出た後に地元の大学に入った。不登校になり始めの頃からどんどん口数が減っていき、大学に入学する頃には1日に一言二言だけ喋るだけになってしまった。

そんな弟から電話があるなんて……。

「……はい、もしもし」

俺は何故か恐る恐る電話に出る。

「もしもし、お兄ちゃん?」

え?

「あ?」

「今どこにいるの? 駅前?」

ダメだった。何年かぶりに弟に『お兄ちゃん』とか呼ばれて意識が飛んでしまっていた。確かに昔は俺のことをお兄ちゃんって呼んでたな、そういえば。気持ちを落ち着ける。

「あ、うん、駅前の自販機の近くにいるから……」

「じゃあそこまで行くよ」

言って電話は切れた。

「……」

なんか最後に見た弟の様子と全然違った。あの猫背でぼそぼそ喋るような雰囲気じゃなかった。何かあったのだろうか……。

まあ、車の中で聞けばいいよな。

 

――――――――

 

大学に入学した後に知り合った女の子と、どうやら付き合い始めたらしい。

「大学のクラスで飲み会があって。その時に彼女と連絡先を交換したんだよね」

俺はその話を聞いてただ目を丸くすることしかできなかった。大学に入学する前の弟を知っている身からすれば、そもそも日常生活を送ることさえ困難するんじゃないか、という状態だったからだ。

「彼女の方から積極的に連絡を取ってきて……それから色んな所を連れ回されたりで大変だったんだよ」

言ったわりには、弟の顔に影は一切無かった。

 

いつの間に乗れるようになっていたのか、弟の運転する車の中で俺はその『彼女』の写真を見せてもらった。快活で笑顔の可愛い女の子だった。

それから家に帰る道すがら、俺は弟の彼女の話を無限に豆鉄砲を喰らい続けた鳩みたいな顔で聞いていた。そういえば、弟とこんなに話すのは何年ぶりか分からない。少なくとも、10年はまともに話すような事はなかったな、と反芻する。今の弟はまだ『元気でハキハキ』とはいかないが、普通に会話が成立するようになっていた。

 

その時に気がついた。『彼女』の存在が、弟にとって『欠けていた』部分だったのだ。外界との接点。現実との橋渡し。関係の仲介役。昔は、それが欠けていたんだな。

 

「……」

「どうしたの?」

 

そう思ったら、俺は目頭が熱くなってきた。『良かったね』という感情だけでは言い表せない、何か複雑な感情が湧いてきて、それが抑えきれなくなっていた。

 

「なんでもないよ……」

 

俺は、車窓の外、雪の積もる畑に視線を移した。

もうすぐ家に着きそうだった。

 

――――――――

 

ガラガラと建て付けの悪い玄関の戸を滑らせると、家の奥の方から母親が顔を出した。少し顔の皺が増えたかもしれない。

 

「久しぶりだねぇ~、寒かったでしょ! コタツに入んなよ!」

 

そう言うと、俺を居間に押し込んだ。

そこでは父と姉が掘り炬燵に足を突っ込みながら、テレビを見ている最中だった。

「おお○○! 久しぶりじゃんか!」と父。

俺はハハ、と若干の気恥ずかしさを覚えながら返事をする。何年かぶりの実家で、何か後ろめたさを感じてしまう。

「○○、おかえり」と、姉も声をかけてくる。

「ただいま」と答えると、姉は笑顔を返してくれた。

姉は、昔よりは少し落ち着きが出て、端からは『普通の人』に見えた。子供の頃は色々な理不尽を感じるような出来事ばかりあったのだが、今では『普通の家族』になっていた。

それもこれも、医学の進歩のお陰なのだろうか。

 

炬燵の空いている席に着くと、3辺は埋まってしまったので、弟が空いたところに座る。

「おい○○、そこに座ってたらテレビが見えないだろ。もうちょっと避けろ」

左右に頭を動かしながら、父が俺に言う。ちょうど俺の背後にテレビがあったので、邪魔になってしまったらしい。「はいはい」と言って30cmほどずれた位置に座った。座る位置が決まったところで、また父が口を開いた。

「どうだ? 仕事は順調か?」

優しいというか、しみじみといった口調である。

「まぁ……忙しいけど、ちゃんとやっているよ」

俺は苦笑いで返す。

父親は、数年ほど前に定年を迎え、後は退職金と土地収入で、この家と家族を養っていた。最近まで『もう仕事をしなくても良くなったからな!』と、同じく退職した知り合い達と一緒に、宴会に、旅行に、と第二の人生をエンジョイしていたのだが、長年の偏食とヘビースモーカーが祟ったのか、宴会帰りのエレベーターの中で倒れたところを救急車で運ばれてしまった。医者の話によると、もう少しで死ぬところだったらしい。それからはタバコも辞め、母親が作る健康的な料理で毎日暮らしている。健康にはなったのかもしれないが、昔あったような、ある種のエネルギッシュな印象は無くなり、『お茶』と『縁側』が似合うような老人になってしまった。

「たまには帰ってくるんだぞ。お母さんも心配してるから……」

すっかり白くなってしまった髪の毛を撫でながら、声のトーンをひとつ落として俺に言う。

「……そうだね」

俺は、守れそうもないな……と内心思いながら、口角の片側だけを吊り上げた。

 

――――――――

 

「ふぅ~~~~~」

 

俺は湯船に肩まで浸かった。

足の指が少し痺れている。さっきまで冷えていたから、そのせいだろう。

 

夕飯の後、しばらくの間テレビで紅白歌合戦を見ていたと思ったら、もう日付が変わるかという時間までダラダラと過ごしてしまったらしい。廊下から顔を出してきた母親から、

「早く風呂に入んなさい! 他の人はみんな入ったよ!」

と急かされてしまった。頭にタオルを巻いて、身体からはホカホカと湯気が立っている。さっきまで風呂に入っていたらしい。周りを見ると、いつの間に入ったのか、父も姉も弟も、みんなパジャマ姿だった。東京にいる時には、日付が変わってからシャワーで済ませる事が多かったので、その習慣が染みついてしまっていた。今は実家に帰ってきたのだから、そのルールに合わせなければならない。俺は渋々といった態度で、着替えとタオルを持って風呂場に向かう。といっても、こういう事を言われるのもなんだか懐かしい気分で、少し嬉しくなってしまった。一人暮らしが長すぎたのだろうか。

 

足の指や手の先も、だんだんと湯の温度に慣れてきて、心地の良い感覚が身体の中に伝わってくる。

ふと横を向くと、曇った風呂場の窓から隣の家の光が見えた。昔から家族ぐるみで仲が良かった、高村さんの家だろう。

 

高村さん家も、今日は家族が集まって賑やかなのだろうか。

 

俺は透明な湯を両手のひらに掬い、顔に叩きつけた。

熱いが、冷えた頭にはこれが気持ち良い。

 

それから家族の事を考えた。

 

弟、母、父、姉。

 

ちゃんと家族だった。

 

ちゃんとした家族。

 

これが夢じゃなければ、どれだけ良かっただろう。

 

もうすぐ目が覚める。

 

鐘の音が遠くで聞こえた。

 

 

 

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